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    日々は平凡に単調に過ぎて行つた。

    当時の三百円は大金たいきんだったでしょう。少くとも田舎大工いなかだいくの半之丞には大金だったのに違いありません。半之丞はこの金を握るが早いか、腕時計うでどけいを買ったり、背広せびろを拵こしらえたり、「青ペン」のお松まつと「お」の字町へ行ったり、たちまち豪奢ごうしゃを極きわめ出しました。「青ペン」と言うのは亜鉛とたん屋根に青ペンキを塗った達磨茶屋だるまぢゃやです。当時は今ほど東京風にならず、軒のきには糸瓜へちまなども下っていたそうですから、女も皆田舎いなかじみていたことでしょう。が、お松は「青ペン」でもとにかく第一の美人になっていました。もっともどのくらいの美人だったか、それはわたしにはわかりません。ただ鮨屋すしやに鰻屋うなぎやを兼ねた「お」の字亭のお上かみの話によれば、色の浅黒い、髪の毛の縮ちぢれた、小がらな女だったと言うことです。

    と、彼は恐しく手まどつて答へた。

    「相沢さんも見えないな」

    「いや、わたくしもね、すぐさう思つたんですが、どうも、こんなところで、思ひがけなかつたもんで――さう、さう、先日は失礼しました、つい出ていたもんですからお目にかかれなくつて、そのうち伺はうと思つていたんですが」

    そこで自分がどんな取扱ひをうけるか、あたり前の医者としてか、それとも単に「芋の子」に過ぎなかつた高間道平の憎まれ息子としてか、房一は少からず興味を持つた。が、大体予測がつかないではなかつた。きつと、医者として認めたがらない気持がそのまゝ現れるだらう、と。

    馬喰達はそつと肱をつゝき合つた。徳次は「鬼倉」といふ言葉を聞いた。そのとき、彼のきよろりとした、酔つた眼の中には、突然いかにも心外さうな、又跳ね上るやうな色が動いた。彼はちよつとぐらりとし、目をつむり、それからぐつと男の方を挑いどむやうに眺めた。馬喰達は小声で、出よう、と云つた。が、徳次はきかなかつた。もう一度大きく上半身をぐらりとさせ、大声で、

    「さつき、はじめは、はてな、見慣れない男がいるな、と思つたくらいですからな」

    「ほう、さうか。毎年あるのかね。そいぢや、これから度々見られるわけだな」

    「神尾司令官閣下と同列なんだよ。宇品から東京駅着。それから直ちに参内上奏されたんだよ。どうも、すばらしいね。目に見えるやうだね」

    「脚気の方は?」

    「おつ」

    「どうしても学問をやるというて聞きませんだつたが。――それで神戸高商を出ましてな住友へ入つて結構やつとりましたが、三年前にぽつくり行つてしまひましたよ。病気ですか?結核性脳膜炎とか云ひましてな、十日ぐらいで、あつさりしたもんでした」

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